[ブログ]「5年はいらない、1年でいい」という問いから考える――在留制度と均衡共生モデル
2026-10-06
2026年10月1日、在留資格変更許可や在留期間更新許可の手数料制度が大きく変わった。従来のほぼ一律の仕組みから、許可される在留期間によって手数料が変わる制度となったのである。この制度について、私は先日の記事「「5年はいらない、1年でいい」は認められない? 在留期間別手数料に欠けている「本人の選択」」で、一つの疑問を提示した。それは、入管が5年の在留期間を認めたとしても、本人が経済的事情などから「今回は1年でよい」と希望することは、本当に認められないのか、という問いである。
これは「手数料が高い」という問題だけではない
この問題を単純に「外国人の手数料負担が重くなった」という議論として捉えると、本質を見誤る。均衡共生モデルの観点から重要なのは、行政が在留期間を決定し、その行政決定によって本人が負担する金額まで変動する制度において、本人の意思をどこまで制度の中に組み込むのか、という点である。申請人は5年を希望することはできる。しかし、5年を希望したからといって5年が保証されるわけではない。3年になることも1年になることもある。反対に、5年が認められた結果、本人が想定していた以上の手数料負担が生じることもある。つまり、申請時点では「行政から何年を与えられ、最終的にいくら支払うのか」が確定していない。この構造は、一般的な商品やサービスの購入とは大きく異なる。
均衡共生モデルは「外国人に優しい制度」を意味しない
私が提唱する均衡共生モデルは、外国人の権利や利益を最大化することだけを目的とした考え方ではない。国家には、誰を受け入れ、どのような条件で在留を認め、どの程度の期間の在留を許可するのかを判断する権限と責任がある。不法滞在、不法就労、制度濫用などに対して適切な統制を行うことも必要である。したがって、在留期間を最終的に行政が決定すること自体は、均衡共生モデルと矛盾しない。むしろ問題となるのは、その強い行政権限に対して、説明可能性、予測可能性、本人の選択可能性がどの程度確保されているかである。国家による統制と個人の尊厳は、どちらか一方を選択する関係ではない。両者の均衡を制度として構築することこそが、均衡共生モデルの中心的な課題である。
行政の裁量が経済的負担まで決めるという構造
今回の制度には興味深い特徴がある。在留期間という行政上の利益と、手数料という経済的負担が連動したことである。長い在留期間は、一般的には外国人にとって利益である。5年間在留できれば、更新回数が減り、生活や雇用も安定する。しかし、その利益を受けるための負担も大きくなるのであれば、「長い在留期間ほど常に本人に有利である」という従来の前提は成立しなくなる。例えば、5年の在留期間を得る資格が十分にある人であっても、許可時点で家族の病気、失業、収入減、子どもの教育費などが重なれば、「今は1年でよい」と考えることはあり得る。制度がそのような人間の生活の変化を想定していなければ、行政上は合理的な制度であっても、生活者の現実との間にずれが生じる。
「普通は5年が欲しい」という想定の危うさ
均衡共生モデルが重視するものの一つに、制度を「平均的な人間像」だけで設計しないという考え方がある。「5年をもらえるなら誰でも5年が欲しいだろう」「自分で5年を希望したのだから、その費用を払うのは当然だろう」という考え方は、多くの場合には正しいかもしれない。しかし、行政制度の質が問われるのは、むしろその想定から外れた人が現れたときである。「そんな人はいないだろう」ではなく、「そのような人が現れた場合、制度はどう対応するのか」をあらかじめ考えておく必要がある。少数の例外をすべて救済すべきだという意味ではない。例外が生じ得ることを認識し、その場合のルールを明確にしておくことが重要なのである。
必要なのは「自由」ではなく「選択可能性」である
だからといって、申請人が自由に好きな在留期間を選べる制度にすればよい、というほど単純でもない。例えば、5年を付与できる者が毎回1年を選択すれば、行政側には更新審査を繰り返す負担が生じる。制度全体の効率性を考えれば、長期間の在留を認められる人には長期間を付与することにも合理性がある。ここで均衡が必要になる。例えば、許可予定期間と手数料額を通知した段階で、一定の条件のもとで短い期間を希望できる仕組みを設けることも考えられる。また、経済的事情がある場合には減免制度を利用しやすくする方法もある。重要なのは、必ず短縮を認めることではない。「払うか、許可を受けないか」という二者択一以外の可能性を制度として検討することである。
説明可能性は行政への信頼をつくる
さらに重要なのは、結論そのもの以上に、その理由が説明されることである。短い在留期間への変更が制度上認められないのであれば、なぜ認められないのか。その法的・制度的理由を示せばよい。「できません」という結論と、「そんなことを希望する人がいるのですか」という反応は、まったく異なる。前者は制度の説明であるが、後者は制度利用者の事情そのものを否定することにつながりかねない。行政への信頼は、すべての希望が認められることによって生まれるのではない。認められない場合であっても、その理由が理解でき、自分の事情が少なくとも制度の視野に入っていると感じられることによって生まれるのである。
「見えない事情」を制度から排除しない
行政から見えるのは、申請書、勤務先、収入、納税状況、社会保険、在留状況などである。しかし、その背後には一人ひとりの生活がある。家賃を払い、食費を払い、子どもを育て、母国の家族を支え、時には突然仕事を失う。申請した日の生活状況と、数か月後の許可日の生活状況が同じとは限らない。均衡共生モデルにおける「共生」とは、単に外国人を社会に受け入れることではない。行政制度の外側にある生活の現実を、制度が完全には把握できないことを自覚することでもある。行政が見えていない事情は、存在しない事情ではない。
制度への信頼こそが「統制」を強くする
これは外国人への配慮だけの問題でもない。制度が利用者の現実を無視し、説明も選択肢も乏しいものになれば、人々は制度そのものに不信を抱く。逆に、ルールが明確で、行政の判断理由が理解でき、合理的な事情について適切な手続が用意されていれば、人はその制度を受け入れやすくなる。つまり、尊厳や説明可能性を確保することは、国家の統制を弱めるのではなく、むしろ統制の正統性を高めるのである。これは均衡共生モデルにおける重要な考え方である。「厳しい制度」と「信頼される制度」は対立しない。必要な規制を行いながら、その理由と手続を明確にすることで、両者は両立できる。
「そんな人がいたらどうするのか」から制度を考える
今回の「5年はいらない、1年でいい」という問いは、一見すると非常に小さな運用上の問題に見える。しかし、その背後には、入管行政に限らない行政制度の根本的な問いが存在する。行政が合理的だと考える利益と、本人がその時点で必要としている利益は、必ずしも一致しない。そのずれが生じたとき、制度は本人の意思をどこまで受け止めるのか。そして、受け止められないのであれば、その理由をどこまで説明するのか。均衡共生モデルが目指すのは、外国人の希望を無条件に認める社会でも、国家の統制を弱める社会でもない。国家が必要な統制を行いながら、一人ひとりを制度の単なる「対象」としてではなく、意思と生活を持つ「主体」として扱う社会である。「そんな人はいないだろう」ではなく、「もしそのような人がいたら、制度はどう向き合うのか」。この問いを積み重ねることこそ、不信を減らし、行政と外国人の双方が制度を信頼できる共生社会への一歩ではないだろうか。
参考
「5年はいらない、1年でいい」は認められない? 在留期間別手数料に欠けている「本人の選択」
