[ブログ]自分の認知を疑うということ ― バイアスを自覚する社会へ ―

2026-09-26

1.認知の罠を越えるために、最後に問うべきこと

第10部では、人間が他者を理解するときに生じる認知の偏りを検討してきた。第54章では社会的カテゴリー化と外集団同質性、第55章では内集団バイアスと集団の自己美化、第56章では帰属の非対称性と確証バイアス、第57章では脅威認知とスケープゴート、そして第58章では、こうした認知が歴史上の排除とどのように関係してきたのかを考えた。

これらの問題を知った私たちは、他者の偏見や誤った判断を見つけやすくなるかもしれない。しかし、他者の認知の偏りを指摘できることと、自分自身の認知の偏りを修正できることは同じではない。

外国人に対する一般化を批判する人が、外国人への不安を表明する人々を一括りにしてしまうこともある。社会秩序の維持を重視する人が、制度の運用に問題を指摘する人々を、秩序を軽視する集団だと考えてしまうこともある。

認知の偏りは、特定の立場にある人々だけの問題ではない。自分は偏見を持っていないと確信する人にも、自分の判断は常識に基づいていると考える人にも生じ得る。

第10部の結論として問うべきことは、誰が偏見を持っているのかという問題だけではない。自分自身の判断を疑い、必要に応じて修正できる社会を、どのように設計するかという問題である。

2.人は自分の認知の偏りに気付きにくい

人間は、他者の判断に含まれる偏りには気付いても、自分自身の判断については、事実に基づいた合理的な結論だと考えやすい。このような傾向は、心理学ではバイアス・ブラインド・スポットと呼ばれる。

たとえば、外国人による犯罪を繰り返し報道することが外国人全体への偏見を生むと指摘する人がいる。その指摘には検討すべき合理的な根拠がある。しかし、その人自身が、外国人に対する批判的な意見をすべて排外的な動機によるものと解釈していれば、別の認知の偏りが生じている可能性がある。

反対に、外国人の受入れによる社会的な負担を懸念する人が、具体的な統計や地域の実情を重視しているつもりでも、自分の懸念を裏付ける情報ばかりを集め、異なる結果を示す調査を軽視している場合がある。

重要なのは、どちらの立場が本質的に偏っているかを決めることではない。自分の判断も、他者の判断と同じように、情報の選択、経験、感情、所属する集団などの影響を受けていると認識することである。

自分の認知を疑うとは、自分の意見を持たないことではない。意見を形成する過程にも誤りが入り込む可能性を認め、その根拠を点検することである。

3.「私は事実を見ている」という確信を点検する

人々はしばしば、自分の判断は事実に基づいており、異なる意見を持つ人々は感情や偏見に左右されていると考える。

しかし、同じ事実を見ても、どの部分に注目するか、何と比較するか、どのような原因を想定するかによって、異なる解釈が生まれる。

ある地域で外国人住民が増加したとする。その変化を、地域経済の担い手が増えたと捉える人もいれば、住宅や教育などの公共サービスへの需要が増えたと捉える人もいる。地域の国際化に注目する人もいれば、言語や生活習慣の違いによる摩擦を懸念する人もいる。

これらは、必ずしも互いに排他的な事実ではない。外国人住民の増加が地域経済に貢献すると同時に、行政サービスの提供体制に新たな課題を生むことも考えられる。

それにもかかわらず、自分が注目する一つの側面を現実の全体だと考えれば、別の側面を指摘する人々が事実を理解していないように見えてしまう。

均衡共生モデルは、事実と解釈を区別することを重視する。確認された事実は何か。その事実から推測していることは何か。自分の評価には、どのような価値判断が含まれているのか。

この三つを分けるだけでも、異なる意見を持つ人々との議論は、相手の人格や動機を疑うものから、事実と政策の検討へと変わり得る。

4.自分の意見を変えることは、敗北ではない

人は一度表明した意見を維持しようとする。特に、その意見が自分の社会的な立場や所属集団の価値観と結び付いている場合、意見を変えることは、自分自身や仲間を否定することのように感じられることがある。

しかし、社会の状況は変化する。新しい統計が公表され、従来は見えていなかった問題が明らかになり、政策の実施結果が当初の予測と異なることもある。

外国人の受入れが地域経済に与える影響について、当初は肯定的な効果を中心に考えていた人が、住宅や教育の受入れ体制に課題があると知り、政策の設計を見直すことがある。反対に、外国人の増加による負担を強く懸念していた人が、実際の就労状況や税・社会保険への貢献を知り、従来の認識を修正することもある。

いずれの場合も、新しい情報に基づいて判断を更新することは、以前の自分に対する敗北ではない。

むしろ、判断の根拠を明確にし、その根拠が変わったときには結論を修正できることが、継続的な学習の条件となる。

均衡共生モデルが目指すのは、最初から正しい答えを知っている社会ではない。誤りを発見したときに、その誤りを認め、修正できる社会である。

5.反対意見は、自分の認知を検証する機会になる

自分と異なる意見に接したとき、人は相手の主張の弱点を探し、自分の立場を守ろうとすることがある。特に、外国人政策のように社会秩序、経済、人権、文化、地域生活など複数の価値が関係する問題では、意見の違いが個人の価値観の対立として受け止められやすい。

しかし、反対意見には、自分が見落としている事実や、自分とは異なる立場から見える問題が含まれている場合がある。

外国人の受入れ拡大を支持する人にとって、地方自治体が直面する教育や住宅の課題を指摘する意見は、政策の実装条件を考える材料となる。一方、受入れの制限を重視する人にとって、人手不足の実態や外国人住民の社会的貢献を示す意見は、政策による影響を検討する材料となる。

もちろん、反対意見を尊重することは、すべての主張が同じ程度に正確であると認めることではない。虚偽の情報、根拠のない一般化、個人の尊厳を否定する言説については、事実と法的原則に照らした検証が必要である。

重要なのは、意見が自分と異なるという理由だけで、その中に含まれる検証可能な事実まで排除しないことである。

相手の主張のうち、どの部分が事実に関するものなのか、どの部分が将来の予測なのか、どの部分が価値判断なのかを分けて考える。そうすることで、意見の相違を、自分の認知を検証する機会へ変えることができる。

6.共感は重要だが、共感だけでは十分ではない

外国人に対する偏見を減らすためには、外国人の生活や経験を知り、その立場を想像することが重要である。しかし、共感は、それだけで公正な判断を保証するものではない。

人は、自分と似た経験を持つ人や、具体的な物語を知っている人に対して、強い共感を抱きやすい。一方で、顔や名前の見えない人々、直接接したことのない集団、あるいは自分の価値観と異なる人々に対しては、同じ程度の共感を持ちにくい場合がある。

たとえば、在留資格を失う危険に直面した外国人の事情を知れば、その人が抱える不安や生活上の困難を理解しやすくなる。しかし、その人を雇用する企業、行政判断を担う職員、制度の公平な運用を求める他の外国人、地域社会の住民にも、それぞれ異なる事情や正当な関心が存在する。

一人の経験に共感することは、その人の置かれた状況を理解する出発点となる。しかし、その経験だけで制度全体の設計を決めれば、別の立場にある人々の事情が見えなくなる可能性がある。

均衡共生モデルにおける共感とは、特定の人々の立場に同化することではない。異なる立場にある人々の経験を理解し、それぞれの権利、責務、制約を制度の中でどのように調整するかを考えることである。

共感によって個人を理解し、事実によって状況を検証し、制度によって異なる立場の人々の利益を調整する。この三つを組み合わせることが必要である。

7.外国人自身にも認知の偏りは存在する

外国人に対する偏見を検討するとき、日本人や受入れ社会の認知だけを問題にすれば、外国人を一方的に評価される存在として位置付けてしまう。

しかし、外国人もまた、自分の経験や所属集団の影響を受けながら、日本社会や日本人を理解している。

行政窓口で不親切な対応を受けた経験から、日本の行政全体が外国人に冷淡だと感じることがある。職場で不当な扱いを受けた経験から、日本企業は外国人を公正に扱わないと考えることもある。反対に、一人の親切な日本人との出会いから、日本人全体が親切であると一般化する場合もある。

これらの認識は、個人の経験に基づいているという意味で、その人にとって現実的なものである。しかし、一つの経験が社会全体を正確に代表しているとは限らない。

もちろん、実際に差別や不当な扱いを受けた人に対して、認知の偏りを理由に被害を否定することは適切ではない。具体的な不利益が存在する場合には、事実の確認と適切な救済が必要である。

そのうえで、日本人と外国人の双方が、個別の経験と集団全体への評価を区別し、必要に応じて認識を修正することが重要となる。

社会統合は、外国人が日本社会を理解することだけでも、日本社会が外国人を理解することだけでも成立しない。互いに相手を理解し、自分の認知を問い直す相互的な過程なのである。

8.認知の偏りを自覚することと、責任を曖昧にすることは違う

認知の偏りを強調すると、外国人による違法行為や、受入れ社会に生じる具体的な問題についても、偏見を避けるために批判を控えるべきだという誤解が生じる可能性がある。

しかし、均衡共生モデルは、認知の偏りを理由として、個人の行為に対する責任を免除するものではない。

違法行為があれば、法令と証拠に基づいて対応する必要がある。雇用主による賃金不払いや違法な労働条件があれば、企業の責任を検証する必要がある。行政による不適切な判断があれば、その判断過程を確認し、必要な是正を行わなければならない。

問題は、責任を追及すること自体ではない。具体的な行為についての責任を、その行為に関与していない人々へ、国籍や所属集団を理由として拡張することである。

同様に、外国人が不利益を受けたという事実だけで、すべての日本人や行政機関が差別的であると結論付けることも適切ではない。

個人の責任、組織の責任、制度の責任を分けることによって、問題の原因に対応する政策が可能となる。

自分の認知を疑うとは、判断を放棄することではない。むしろ、事実に基づいて責任を明確にするために、不必要な一般化を取り除くことである。

9.社会的な議論を、相手の動機を裁く場にしない

外国人政策をめぐる議論では、異なる意見を持つ人々の動機が問題にされることがある。

受入れの制限を主張する人々について、外国人への敵意があるからだと考える人がいる。一方、受入れの拡大を主張する人々について、治安や社会的な負担を軽視しているからだと考える人もいる。

しかし、政策上の立場だけから、その人の内面的な動機を正確に判断することは難しい。

同じ政策を支持する人々の間にも、経済、地域生活、行政能力、人権、国際関係など、異なる関心が存在する。政策への反対についても、その理由は一様ではない。

もちろん、実際に差別的な発言や虚偽の情報が示された場合には、その内容を具体的に検証し、必要な批判を行うことができる。しかし、相手の発言内容を検討する前に、所属する集団や政策上の立場から動機を決め付ければ、議論は事実の検証から遠ざかる。

均衡共生モデルが重視するのは、異なる意見の存在を否定することではなく、その意見を検証可能な形で議論することである。

何を問題としているのか。どのような事実に基づいているのか。提案する政策には、どのような効果と副作用が考えられるのか。誰が費用や責任を負担するのか。

相手の動機を推測するよりも、こうした問いを共有することが、建設的な政策議論の基盤となる。

10.認知を修正できる情報環境をつくる

個人が認知の偏りを自覚しようとしても、日常的に接する情報が一方向に偏っていれば、その努力には限界がある。

現代社会では、検索サービス、ニュース配信、動画、SNSなどを通じて、大量の情報が個人の関心に応じて届けられる。こうした仕組みは情報へのアクセスを容易にする一方で、既存の関心や認識に合う情報へ接触が集中する可能性もある。

外国人による事件に関心を持つ人が、類似の事件ばかりを目にすれば、そのような事件が社会全体で頻繁に起きているように感じるかもしれない。反対に、外国人の社会的貢献に関する情報ばかりに接していれば、地域社会で実際に生じている摩擦や制度上の課題を見落とす可能性がある。

いずれの場合も、目にしている情報が虚偽であるとは限らない。問題は、事実の一部だけを繰り返し見ることによって、現実の全体像を誤って理解することである。

必要なのは、情報の量を増やすことだけではない。情報がどのような対象から収集され、何と比較され、どのような条件の下で成立しているのかを確認できる環境である。

統計については、調査対象、母集団、集計期間、分類基準を明確にする。個別の事件については、その事実関係と集団全体への一般化を区別する。政策の効果については、肯定的な結果だけでなく、予想と異なった結果や副作用も公表する。

認知の修正を個人の努力だけに委ねず、社会全体が検証可能な情報に接することのできる環境を整える必要がある。

11.行政は、自らの判断を疑える組織でなければならない

認知の偏りは、個人だけでなく、組織の判断にも影響する。

行政機関は、法令に基づいて業務を遂行する。しかし、法令の解釈、事実の評価、裁量の行使、優先順位の設定などには、人間による判断が介在する。

過去の経験から形成された判断基準が、その後の社会状況の変化に適合しなくなることがある。特定の申請類型に対する警戒が強まった結果、個別事情を十分に確認しないまま、類似の申請を同じように扱ってしまう可能性もある。

だからこそ、行政には、自らの判断を検証する仕組みが必要である。

判断基準とその目的を明確にし、判断の根拠を記録する。類似の事案について、合理的な理由なく異なる取扱いが生じていないかを確認する。異議申立てや司法判断によって誤りが明らかになった場合には、個別の処分を是正するだけでなく、同じ誤りが繰り返されないように運用を見直す。

また、制度の利用者から寄せられる意見や苦情を、単なる不満として処理するのではなく、制度の説明不足や運用上の問題を発見する情報として活用することも重要である。

均衡共生モデルにおける説明可能性とは、行政が自らの判断を正当化するためだけの仕組みではない。判断の根拠を示すことによって、その妥当性を外部から検証し、必要に応じて修正できるようにする仕組みである。

行政の信頼性は、誤りが一切生じないことによってのみ形成されるのではない。誤りが生じた場合に、それを発見し、説明し、是正できることによっても形成される。

12.RegTechは、人間の認知を補完できるか

均衡共生モデルでは、制度の透明性と予測可能性を高める手段として、RegTechや行政手続のデジタル化を位置付けている。

データを適切に整理し、判断基準を明確にし、類似の事案を比較できるようにすれば、人間の記憶や経験だけに依存する判断を補完できる可能性がある。

たとえば、在留申請における追加資料の要求、審査期間、許可・不許可の理由などを、個人情報の保護に配慮しながら分析すれば、運用上の不整合や説明不足を発見する手掛かりとなる。

しかし、技術による判断が常に人間の判断より公正であるとは限らない。

過去の判断に偏りが存在すれば、それを学習したシステムが同じ傾向を再現する可能性がある。また、何を測定し、どのように分類し、何を問題とみなすかという設計自体にも、人間の価値判断が含まれる。

したがって、RegTechには、処理の自動化だけでなく、判断の根拠を追跡し、分類基準を点検し、誤りを訂正する機能が求められる。

特に、在留資格や生活基盤に重大な影響を及ぼす判断については、システムが示した結果を人間が検証できること、個別事情を適切に考慮できること、不利益を受けた人が判断を争う手段を確保できることが重要となる。

技術は、人間の認知の偏りを自動的に解消するものではない。しかし、人間が自らの判断を検証し、修正するための情報を提供することはできる。

13.認知の修正を、社会の学習へ変える

自分の認知の偏りに気付き、判断を修正することは、個人にとって重要な学習である。しかし、その経験が個人の中だけにとどまれば、社会全体の制度や慣行は変わらない。

第53章では、経験を社会の学習へ変えるために、振り返り、修正、再設計の循環が必要であると論じた。この考え方は、認知の偏りにも当てはまる。

たとえば、職場で外国人従業員との意思疎通に問題が生じた場合、その原因を文化の違いだけに求めるのではなく、業務指示の方法、言語による説明、研修、管理者の対応などを検証する。その結果、業務手順を改善し、同様の問題が再発しないかを確認する。

地域社会で外国人住民との摩擦が生じた場合にも、個別の行為への対応と、生活ルールの周知不足や相談体制の問題を分けて検討する。必要な改善を行い、その効果を継続的に確認する。

行政においても、申請者からの苦情、審査上の誤り、司法判断、統計上の変化などを、制度改善のための情報として蓄積することができる。

このように、個人の認知の修正を、組織の業務改善や制度の再設計へ結び付けることによって、社会は同じ誤りを繰り返しにくくなる。

重要なのは、問題が生じたときに、誰かの人格や集団の性質だけを原因とするのではなく、次に同じ問題が起きたとき、どのように防止し、対応できるかを考えることである。

14.信頼とは、相手を無条件に信じることではない

ここまで認知の偏りを検討してきた結果、私たちは一つの問いに直面する。自分の認知が常に正しいとは限らず、他者の判断にも偏りが存在するのであれば、社会は何を根拠に信頼を形成できるのだろうか。

均衡共生モデルにおける信頼は、相手が必ず正しく行動すると信じ込むことではない。また、外国人や日本人、行政や企業について、肯定的な認識を持ち続けることでもない。

信頼とは、問題が生じる可能性を認めたうえで、その問題に対応する制度や関係が機能すると期待できることである。

外国人住民が行政手続を利用するとき、判断基準が理解でき、必要な資料を準備でき、問題があれば説明を受け、誤りがあれば是正を求められる。地域住民が生活上の問題に直面したとき、相談先が明確であり、事実に基づいて適切な対応が行われる。企業が外国人を雇用するとき、守るべきルールと責任が明確であり、制度の変更について合理的な見通しを持つことができる。

このような経験が積み重なれば、社会の構成員は、互いを無条件に信用しなくても、制度や関係に依拠できるようになる。

理解から予測可能性へ、予測可能性から依拠可能性へ、そして信頼へ。自分の認知を疑う能力は、この連鎖を維持するための重要な条件である。

15.「彼ら」と「われわれ」を越えて

第10部では、人間が複雑な社会を理解するために用いるカテゴリーが、どのように認知の偏りを生み出すのかを検討してきた。

「外国人」というカテゴリーは、法制度や統計、政策の設計において必要となる場合がある。しかし、そのカテゴリーが個人の人格や行動を説明する万能の概念になるわけではない。

同様に、「日本人」というカテゴリーも、社会の構成員が同じ経験、価値観、利害を持っていることを意味しない。

私たちは、社会の中で複数の集団に所属している。国籍、職業、地域、家族、学校、企業など、それぞれの場面で異なる関係を持ち、異なる役割を担っている。

外国人と日本人という区分が重要な場面もあれば、同じ地域に暮らす住民、同じ職場で働く同僚、同じ制度を支える納税者や社会保険の加入者という共通性が重要になる場面もある。

均衡共生モデルは、集団の違いをなくすことを目指すものではない。必要な違いを認識しながら、その違いを個人の価値や責任の不当な一般化へ結び付けない社会を構想する。

そして、その社会を実現するためには、他者に認知の修正を求めるだけでなく、自分自身の判断も常に検証の対象としなければならない。

自分が正しいと考える理由を説明できること。異なる事実が示されたときに、その意味を検討できること。誤りが明らかになったときに、判断を修正できること。これらは、個人だけでなく、行政、企業、地域社会にも求められる能力である。

認知の偏りを完全になくすことはできない。しかし、偏りが存在することを認め、それを発見し、修正する仕組みを持つことはできる。

第10部の結論は、他者への不信をすべて取り除くことでも、異なる意見を一つに統一することでもない。互いの認知が不完全であることを前提として、事実を共有し、判断を検証し、問題があれば修正できる社会を築くことである。

次の第11部では、これまで検討してきた制度、テクノロジー、経験、認知の問題を統合し、信頼がどのように社会へ根付くのかを考える。信頼は命令によって生まれるものではない。それは、社会の構成員が、制度と他者に依拠できる経験を繰り返すことによって形成されるのである。

Kenji Nishiyama

筆者:西山健二(行政書士 登録番号 20081126)

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