[ブログ]「彼ら」が現れると「われわれ」は美しくなる ― 内集団バイアスと集団の自己美化 ―
2026-09-18
1.「外国人」を見ているとき、私たちは「日本人」も見ている
前章では、人が複雑な社会を理解するためにカテゴリーを用い、とりわけ自分が所属していない集団について、その内部の違いを実際以上に小さく認識しやすいことを考えた。「外国人」というカテゴリーの中には極めて多様な人々が存在するにもかかわらず、「彼らはこういう人たちだ」という認識が形成されることがある。
しかし、「彼ら」というカテゴリーがつくられるとき、同時にもう一つのカテゴリーがつくられる。それが「われわれ」である。
「外国人はルールを守らない」という言葉には、しばしば「日本人はルールを守る」という暗黙の比較が含まれている。「外国人は地域社会になじまない」という認識の背後には、「日本人は地域社会を大切にする」という自己認識が存在することがある。
つまり、外国人について語ることは、外国人だけを評価する行為ではない。それとの比較を通じて、自分たちが何者であるかを確認する行為にもなり得る。
本章では、外集団である「彼ら」が意識されたとき、内集団である「われわれ」の認識に何が起こるのかを考える。均衡共生モデルが向き合うべき認知の問題は、外国人に対する偏見だけではない。自分たち自身を実際以上に好ましく理解する可能性にも目を向ける必要がある。
2.人は自分が所属する集団を好意的に見やすい
人は、自分が所属している集団を一定程度好意的に評価しやすい。社会心理学では、こうした傾向は一般に「内集団バイアス」と呼ばれる。
これは必ずしも強い愛国心や排外意識を意味するものではない。学校、会社、地域、スポーツチームなど、さまざまな集団で生じ得る。「自分の学校は良い学校だ」「自分の会社の人たちは優秀だ」「自分の地域は住みやすい」と感じること自体は珍しくない。
自分が所属する集団への愛着は、連帯や協力を生むこともある。社会を維持するうえで、内集団への帰属意識そのものを否定する必要はない。
問題は、自分たちへの好意が、外部の集団との比較によって過度に強化される場合である。「われわれは良い」という認識が、「彼らは悪い」という対比によって支えられるようになると、自己理解そのものが歪む可能性がある。
均衡共生モデルが問うのは、集団への愛着を捨てるべきかではない。自分たちを肯定するために、他者を必要以上に否定していないかということである。
3.「彼ら」の欠点は「われわれ」の長所を際立たせる
外集団の問題が強く意識されると、それとの比較によって内集団の長所が目立つことがある。
外国人によるルール違反が話題になると、「日本人はルールを守る」という認識が強まる。外国人による社会保険料や税の未納が問題になると、「日本人はきちんと負担している」というイメージが形成される。外国人による地域でのトラブルが注目されると、「日本人は地域の秩序を守っている」という自己像が強くなることがある。
しかし、現実には日本人の中にもルール違反は存在し、税や社会保険に関する問題もあり、地域社会との関係が希薄な人もいる。
ここで重要なのは、外国人の問題を否定することではない。実際に問題が存在するなら、それは適切に把握し、必要な対応を行うべきである。
問題は、外集団の欠点を観察した瞬間に、内集団の欠点が認知から消えてしまうことである。「彼らの問題」が、「われわれにはその問題がない」という証明になるわけではない。
4.比較対象によって自己像は変わる
人や集団についての評価は、何と比較するかによって変化する。
たとえば、日本社会のルール遵守について考えるとき、日本人内部のさまざまな行動を観察すれば、多様な実態が見える。しかし、「ルールを守らない外国人」というイメージを比較対象に置けば、日本人全体が相対的に規律正しく見える可能性がある。
逆の現象も起こり得る。外国人が日本社会の特定の問題を見て、「自分の国ではこんなことはない」と考えるとき、自国の内部に存在する同種の問題を見落としている可能性がある。
つまり、集団の自己美化は日本人だけに生じるものではない。人は誰でも、自分の所属する集団を外集団との比較によって理解する。
だからこそ、「われわれは彼らより優れている」という認識が生じたときには、その結論そのものより先に、「何と何を比較しているのか」を確認する必要がある。
5.内集団の失敗は「個人」、外集団の失敗は「集団」になりやすい
内集団バイアスが問題になるのは、同じ行為に異なる説明を与える場合である。
日本人がルールを破ったときには、「あの人は非常識だ」「事情があったのかもしれない」と個人の性格や状況によって説明する。一方、外国人が同じルールを破ると、「外国人はルールを理解しない」「文化が違うからだ」と集団の特徴によって説明することがある。
すると、内集団の問題は例外として処理され、外集団の問題は集団の本質として記憶される。
これは社会認識に大きな非対称性を生む。日本人による多数の問題行動は個別事例として分散して認識される一方、外国人による少数の問題行動が「外国人問題」という一つのカテゴリーへ集約される可能性があるからである。
同じ行為には、可能な限り同じ分析の基準を適用する必要がある。国籍を入れ替えたときにも同じ説明をするだろうか。この問いは、自分の認知の非対称性を確認する有効な方法となる。
6.「われわれ」の成功も集団全体の性質とは限らない
外集団の失敗を一般化してはならないのと同様に、内集団の成功を集団全体の性質として一般化することにも注意が必要である。
日本社会には、治安、公共交通、行政、教育、医療、社会保険、地域秩序など、長い時間をかけて形成されてきた多くの社会的成果がある。本書の第2部で考えたように、これらは軽視されるべきものではない。
しかし、その成果を単純に「日本人は優れているから」と説明すれば、制度がどのように形成され、どのような仕組みが人々の行動を支えているのかが見えなくなる。
人々がルールを守る背景には、教育、制度、監督、社会規範、インフラ、行政サービス、周囲の行動など複数の要因が存在する。社会の成果を民族的・国民的な性質だけで説明すれば、その成果を維持する制度的条件を見失う可能性がある。
均衡共生モデルが社会の成功を分析する目的は、自国を否定することではない。むしろ、何が実際に成功を生み出しているのかを理解し、その条件を維持することである。
7.社会の長所を認めることと自己美化は違う
自分たちの社会の長所を評価すること自体は、内集団バイアスではない。
制度が機能しているなら、その成果を評価してよい。犯罪が少ない、公共空間が清潔である、行政サービスが安定している、社会保険制度が広く機能しているといった事実が確認できるのであれば、それを社会の成果として認識することには意味がある。
自己美化との違いは、その評価が比較可能な事実や制度的要因に基づいているか、それとも「われわれだから優れている」という自己完結的な説明になっているかである。
社会の長所を正確に理解することは、その長所を外国人にも共有してもらうためにも重要である。なぜこのルールがあるのか。なぜこの制度を維持したいのか。どのような社会的利益を守っているのか。それを説明できれば、統合は単なる服従の要求ではなくなる。
自国への評価と批判的思考は両立する。むしろ、自分たちの社会の価値を正確に理解するためには、自己美化と自己否定の双方を避ける必要がある。
8.「われわれ」の境界は固定されているのか
内集団と外集団を考えるとき、さらに重要な問いがある。「われわれ」とは誰なのかという問いである。
日本国籍を持つ人だけが「われわれ」なのか。日本で生まれ育った外国籍の人はどうなのか。数十年間日本で生活する永住者はどうなのか。外国にルーツを持つ日本国籍者はどうなのか。
第6部では、永住者を日本社会の恒久的構成員として考えた。法的には外国人であっても、生活、就労、納税、家族、地域との関係を長期間積み重ねている人は、社会的には「われわれ」の一部になり得る。
つまり、「外国人=彼ら、日本人=われわれ」という境界は、国籍という法的区分としては明確であっても、社会的な関係としてはそれほど単純ではない。
均衡共生モデルは国籍の意味を否定しない。しかし、法的な国籍区分と、社会的な構成員としての関係を完全に同一視することもしない。
9.共通の目的は「われわれ」の範囲を変える
人が誰を内集団として認識するかは、状況によって変化する。
職場では、日本人と外国人という区分より「同じ会社の社員」という意識が強くなることがある。地域の防災活動では「日本人と外国人」ではなく、「同じ地域に住む住民」という関係が前面に出る。子どもの学校では、国籍の違いより「同じ学校の保護者」という共通性が重要になることもある。
これは国籍の違いが消えるという意味ではない。より大きな共通カテゴリーが形成されることで、従来の内集団と外集団の境界が相対化されるということである。
第52章で良質な対人経験の条件として「共通目的」を挙げた理由もここにある。人は共通の課題に取り組むとき、相手を「彼ら」ではなく「同じ目的を持つ人」として認識しやすくなる。
社会統合とは、すべての違いを消すことではない。「日本人」「外国人」というカテゴリーを残したまま、それより上位に「同じ社会を支える構成員」という共通の認識を形成することでもある。
10.外集団への批判と内集団への点検を対称にする
認知の均衡を保つためには、外集団に向ける評価基準を内集団にも適用する必要がある。
外国人の社会保険料未納を問題とするなら、日本人についても同じ制度上の問題を確認する。外国人の犯罪を議論するなら、比較可能な母集団と指標を用いて全体像を見る。外国人に地域参加を求めるなら、日本人自身の地域参加の実態も確認する。
これは外国人の問題を相対化して無視するためではない。問題を正確に位置付けるためである。
外国人に問題があれば、その問題に対応する。日本人にも同じ問題があれば、それにも対応する。特定の在留制度に固有の問題なら、その制度を改善する。特定の個人による問題なら、その個人の責任として扱う。
「誰がしたか」から出発するのではなく、「何が起きたのか」「なぜ起きたのか」「どの範囲の問題なのか」から考える。その対称性が、感情的な集団比較を具体的な問題解決へ変える。
11.自分たちの欠点を認めることは社会への信頼を壊さない
自国や自分の集団の問題を認めることに、不安を感じることがある。自分たちの欠点を認めれば、社会への誇りや信頼が失われるように感じるからである。
しかし、信頼は「われわれには問題がない」という物語によって維持されるものではない。
第53章で考えたように、社会への信頼とは、社会が決して失敗しないという確信ではなく、失敗を発見し、原因を理解し、修正できるという期待でもある。
日本社会に問題があることを認めても、日本社会の価値が否定されるわけではない。むしろ、自らの問題を検証し、制度を改善できる能力そのものが社会への信頼を支える。
同じことは外国人にも当てはまる。外国人の問題を指摘することが排外主義なのではなく、その問題を集団全体の本質へ変換し、異なる基準で評価することが認知の歪みを生むのである。
12.「彼ら」を必要としない自己理解へ
成熟した社会は、自分たちの価値を確認するために、常に劣った「彼ら」を必要としない。
日本社会の長所は、外国人の欠点との比較によって初めて成立するものではない。社会が長い時間をかけて築いてきた制度、公共秩序、労働者保護、社会保障、教育、地域社会の仕組みには、それ自体として検証し、継承する価値がある。
同時に、その社会に問題があれば修正する。外国人から学べることがあれば学ぶ。外国人に共有してもらうべき社会的ルールがあれば、その理由を説明して共有を求める。
均衡共生とは、自国を否定する思想でも、自国を無条件に肯定する思想でもない。自分たちの社会の成果と問題を、外集団との感情的な比較から切り離し、できる限り具体的な事実と制度によって理解することである。
「彼らが悪いから、われわれは良い」のではない。「われわれが良いから、彼らが悪い」のでもない。それぞれの行為、制度、成果、問題を、それぞれの根拠によって評価する。
この視点を持つことで、「彼ら」と「われわれ」という境界は、対立のための線ではなく、必要に応じて問い直すことのできる社会的カテゴリーになる。
しかし、認知の非対称性には、さらに深い問題が残る。同じ行為でも、外集団の行為はその集団の「性質」として理解され、内集団の行為は個人の「例外」として理解されるのはなぜなのか。そして、いったん形成された「外国人はこうだ」という認識に合う情報ばかりが目に入るようになるのはなぜなのか。
次章では、一人の行為が集団の性質へ変換される過程を、帰属の非対称性と確証バイアスという視点から検討する。認知の罠を越えるためには、「何を見たか」だけでなく、「なぜそのように解釈したのか」を問い続けなければならない。
※本稿は、均衡共生モデルにおける目次を構成する章に位置付けています。
