[ブログ]人はなぜ「外国人」を一括りにするのか ― 社会的カテゴリー化と外集団同質性 ―

2026-09-16

1.経験から学ぶだけでは十分ではない

前章までの第9部では、人が外国人や社会についてどのように認識を形成するのかを、経験という側面から考えてきた。人はニュースや評判だけで判断するのではない。行政との制度経験、職場や地域での対人経験、小さな成功や失敗の積み重ねによって社会を理解していく。そして、その経験を振り返り、修正し、制度や組織の改善へつなげることで、社会そのものが学習することができる。

しかし、ここにはもう一つ重要な問題がある。同じ経験をしても、すべての人が同じようにそこから学ぶわけではないという問題である。

ある外国人がルールを守らなかったとき、それを「その人の行為」と理解する人もいれば、「外国人はルールを守らない」と理解する人もいる。反対に、日本人が同じ行為をしたときには、「その人に問題があった」と個人の問題として処理されることがある。

つまり、経験と社会認識の間には「認知」という過程が存在する。経験した事実がそのまま認識になるのではない。人は経験を分類し、意味付けし、既に持っているカテゴリーの中へ配置する。

第10部では、この認知の仕組みを考える。均衡共生モデルが不信を減らそうとするなら、制度だけでなく、人が世界をどのように理解しているのかという認知の構造にも目を向けなければならない。

2.カテゴリー化は人間に必要な能力である

人は世界のすべてを一つひとつ個別に理解しているわけではない。膨大な情報を効率的に処理するため、似たものをまとめてカテゴリーとして認識する。

「会社員」「学生」「高齢者」「観光客」「外国人」「日本人」といった分類も、その一例である。カテゴリー化することで、人は複雑な社会を短時間で理解し、次に何が起こるかをある程度予測できる。

したがって、カテゴリー化そのものを悪いものと考えるべきではない。それは人間の認知にとって不可欠な機能である。

問題は、カテゴリーが現実そのものだと考えてしまうことである。「外国人」という分類は、行政上、統計上、法律上、あるいは日常会話上、必要になる場合がある。しかし、そのカテゴリーの内部には、国籍、在留資格、来日の目的、滞在期間、職業、年齢、言語能力、家族関係、価値観など、まったく異なる人々が存在する。

カテゴリーは現実を理解するための道具であって、現実そのものではない。

3.「外国人」という言葉は極めて大きなカテゴリーである

「外国人」という言葉ほど、多様な人々を一つにまとめるカテゴリーも少ない。

日本で生まれ育った永住者も、昨日来日した観光客も、留学生も、特定技能外国人も、企業の経営者も、研究者も、外交官も、難民認定申請者も、法律上あるいは日常語では「外国人」と呼ばれることがある。

しかし、この人々の日本社会との関係は大きく異なる。滞在目的も、権利義務も、日本社会との接点も、将来の見通しも同じではない。

それにもかかわらず、「外国人問題」「外国人政策」「外国人犯罪」「外国人との共生」といった言葉を使うとき、こうした違いが見えなくなることがある。

もちろん、政策上「外国人」という区分が必要な場面は存在する。しかし、何について議論しているのかによって、カテゴリーの範囲を適切に狭めなければならない。観光政策を議論しているのか、外国人労働政策なのか、永住制度なのか、難民政策なのか。それぞれは関連していても同じ問題ではない。

均衡共生モデルが重視するのは、「外国人」という言葉を使わないことではなく、その言葉によって何がまとめられ、何が見えなくなっているのかを意識することである。

4.人は「彼ら」を似た存在として認識しやすい

社会心理学では、自分が所属していない集団の人々を、実際以上に互いに似ていると認識する傾向が知られている。一般に「外集団同質性」と呼ばれる現象である。

自分が所属する集団については、一人ひとりの違いがよく見える。日本人について考えれば、親切な人もいれば不親切な人もいる、ルールを守る人もいれば守らない人もいる、考え方も生活もさまざまであることを私たちは知っている。

ところが、自分が日常的に接していない集団については、その内部の違いを知る機会が少ない。その結果、「あの人たちはこういう人たちだ」という単純な認識が形成されやすくなる。

これは外国人に対する日本人の認識だけに生じるものではない。外国人が「日本人はみんな同じように考える」「日本人は本音を言わない」と一般化する場合にも、同じ認知の仕組みが働き得る。

均衡共生モデルにとって重要なのは、この現象を誰かの悪意だけで説明しないことである。人間の認知そのものに、外部の集団を単純化して理解しやすい性質があると考える必要がある。

5.一人の経験が「外国人全体」の評価へ変わるとき

カテゴリー化と外集団同質性が組み合わさると、一人の行動が集団全体の特徴として理解される危険が生じる。

たとえば、ある外国人がゴミ出しのルールを守らなかったとする。本来確認できる事実は、「ある一人の人が、この場面でルールを守らなかった」ということである。

ところが、その人が「外国人」というカテゴリーで強く認識されると、「外国人はゴミ出しのルールを守らない」という一般化が起こり得る。

同じ行為を日本人がした場合には、「あの人はマナーが悪い」と個人の問題として理解されるかもしれない。日本人という内集団については内部の多様性を知っているため、一人の行為を日本人全体へ一般化しにくいからである。

ここで重要なのは、問題行為を軽視することではない。ルール違反があれば、その行為自体は適切に扱う必要がある。問題は、個人の責任を集団の属性へ変換してよいのかということである。

個人の行為を適切に評価することと、集団への一般化を避けることは両立する。

6.ニュースはカテゴリーを強化することがある

第48章では、ニュース、評判、経験が社会認識を形成することを考えた。ここでもカテゴリー化は重要な役割を果たす。

事件を報道するとき、国籍が示される場合がある。その情報が事件を理解するうえで重要な場合もあれば、そうではない場合もある。しかし、国籍が繰り返し強調されれば、個別の事件が「外国人」というカテゴリーと結び付けられて記憶される可能性がある。

一方、日本人による同種の事件では、通常「日本人による事件」というカテゴリーで認識されないことが多い。多数派であること自体が背景化し、個人の事件として理解されやすいからである。

これは、報道が外国人について伝えるべきではないという意味ではない。必要なのは、どの情報が事実理解に必要なのか、その情報からどこまで一般化できるのかを区別することである。

一つの事件は一つの事件である。それが集団全体について何を意味するのかは、別途検証されなければならない。

7.統計もカテゴリーの選び方によって意味が変わる

カテゴリー化の問題は、日常的な印象だけでなく、統計を読む場合にも生じる。

「外国人」という一つの集団で数字を示すと、その内部にある大きな違いが見えなくなることがある。在留期間、年齢構成、就労状況、在留資格、居住地域などが異なれば、観察される現象の背景も異なる。

また、比較する母集団が異なれば数字の意味も変わる。人数そのものを比較するのか、人口比で比較するのか、年齢や就労状況などの条件を考慮するのかによって、見えるものは変わる。

統計は認知の偏りを修正する有力な手段である。しかし、カテゴリーの設定が粗ければ、統計そのものが過度な一般化を補強することもある。

均衡共生モデルが求めるのは、都合のよい数字を選ぶことではない。何を母集団とし、何と比較し、どこまで結論を導けるのかを説明可能にすることである。

8.カテゴリーを細分化すると現実が見えてくる

認知の罠を避ける一つの方法は、必要に応じてカテゴリーを細分化することである。

「外国人」ではなく、「観光客」「留学生」「就労者」「永住者」などに分ける。それでも粗ければ、在留資格、滞在期間、職種、地域など、議論の目的に応じてさらに分ける。

すると、それまで「外国人の問題」と見えていたものが、実は特定の制度、産業、地域、生活段階に集中していることが見える場合がある。

原因が特定できれば、対策も具体的になる。観光客へのルール周知の問題であれば観光政策として対応できる。外国人労働者の職場問題であれば労働行政や雇用管理の問題として考えられる。長期定着者の教育や高齢化であれば、外国人政策というより住民政策や社会政策として扱うべき場合もある。

カテゴリーを細かくすることは、問題を隠すことではない。むしろ、問題が実際にどこに存在するのかを明確にすることである。

9.しかしカテゴリーをなくすこともできない

ここで注意しなければならないのは、「人をカテゴリーで考えること自体が間違いだ」という結論に進まないことである。

政策は一定のカテゴリーなしには設計できない。在留資格もカテゴリーであり、労働者、学生、未成年者、高齢者といった区分も政策上必要である。異なる状況に異なる制度を適用するためには、分類が不可欠である。

重要なのは、カテゴリーをなくすことではなく、その限界を理解することである。

どの目的のためにつくられたカテゴリーなのか。そのカテゴリーの内部にはどの程度の多様性があるのか。ある場面で有効な分類を、別の場面にもそのまま適用してよいのか。

「外国人」というカテゴリーも同じである。入管行政では法的に重要な区分であっても、近隣住民としての関係、職場での能力、人格、信頼性を判断する際に、それだけで十分な情報を与えるものではない。

カテゴリーを使いながら、カテゴリーを絶対視しない。その姿勢が必要である。

10.対人経験は「彼ら」を「一人の人」へ戻す

第9部で扱った対人経験には、カテゴリー化を修正する重要な働きがある。

直接的な関係がないとき、「外国人」は抽象的な集団として認識されやすい。しかし、一緒に働き、話し、問題を解決し、時には意見を異にする経験を重ねると、相手は単なるカテゴリーではなく具体的な個人として認識されるようになる。

「外国人の同僚」だった人が、「仕事の速い同僚」「説明が丁寧な人」「少し時間にルーズな人」「サッカーが好きな人」といった複数の特徴を持つ一人の人間として見えるようになる。

これは、外国人であるという事実を無視することではない。国籍や文化的背景が、その人を理解するうえで意味を持つ場面もある。しかし、それだけがその人を説明する唯一の属性ではなくなる。

良質な対人経験が重要なのは、単に好意を増やすからではない。抽象的なカテゴリーの内部に存在する個人差を見えるようにするからである。

11.「彼ら」という認識は「われわれ」もつくる

外集団をカテゴリー化することには、もう一つの側面がある。「彼ら」をつくることは、同時に「われわれ」をつくることでもある。

「外国人はこうだ」と考えるとき、その背後にはしばしば「日本人はそうではない」という暗黙の比較が存在する。

しかし、日本人も一様ではない。ルールを守る人も守らない人もいる。地域社会に積極的に参加する人もいれば、ほとんど参加しない人もいる。社会保険や税について高い理解を持つ人もいれば、制度を十分に知らない人もいる。

外集団を単純化すると、それとの対比によって内集団まで実際以上に整然とした存在として認識される可能性がある。

ここから、第10部の次の問いが生まれる。なぜ人は外部の集団を単純化するだけでなく、自分が所属する集団をより好ましく評価することがあるのか。

次章では、「彼ら」というカテゴリーが現れたとき、「われわれ」の認識に何が起こるのかを考える。内集団バイアスと集団の自己美化という視点から、外国人についての判断が、実は日本人自身についての認識とも深く結び付いていることを検討する。

12.均衡共生とはカテゴリーを疑い続けることである

均衡共生モデルは、「外国人」というカテゴリーを否定するものではない。国家には国籍という法的区分があり、入管制度には在留資格という分類があり、政策には対象を定義する必要がある。

しかし、制度上必要なカテゴリーを、そのまま人間そのものの評価へ持ち込んではならない。

一人の行為を集団全体の性質へ変えない。集団についての統計を個人の評価へ直接適用しない。問題が起きたときには、どの人、どの制度、どの条件に原因があるのかを可能な限り具体的に考える。

これは外国人を擁護するためだけの原則ではない。外国人が日本人を一括りにするときにも同じ原則が適用される。

人間はカテゴリーなしに世界を理解できない。しかし、カテゴリーだけで世界を理解しようとすれば、現実を見誤る。

「外国人だから」ではなく、「この人はどうなのか」。「日本人だから」ではなく、「この人はどうなのか」。そして個人だけでは説明できない問題については、「どの制度や環境がこの行動を生み出しているのか」と問い直す。

第9部で扱った経験からの学習に、この認知への自覚を加えることで、均衡共生モデルはもう一段深い地点へ進む。社会が学ばなければならないのは、外国人についてだけではない。外国人を見ている「自分たちの認知」についても学ばなければならないのである。


※本稿は、均衡共生モデルにおける目次を構成する章に位置付けています。

Kenji Nishiyama

筆者:西山健二(行政書士 登録番号 20081126)

外国人の在留資格をサポートしてきた行政書士。事務所サイトでは、在留・入管に関する最新ニュースや実務のヒントを毎日発信中。外国人雇用にも詳しく、企業の顧問として現場のサポートも行っている。