[ブログ]ファクトよりも体験を重んじる――外国人政策を考えるための出発点
2025-12-30
外国人政策をめぐる議論では、「まずファクトを見よ」「データに基づけ」という言葉がよく使われます。もちろん、事実や統計が重要であることは言うまでもありません。しかし、それ以上に重視されるべきものがあります。それが自己の体験です。どれほど整った数字が並んでいても、それが自分や周囲の生活実感とかけ離れていれば、人は納得しません。政策評価の出発点は、統計表ではなく、日々の暮らしの中で何が起きているかという体験にあるべきです。
この点を考えるうえで参考になるのが、文春オンラインの記事「マンション高騰も犯罪も『外国人のせい』? データと現実から見えた本当の論点」です。この記事は、「外国人問題」とひとまとめに語られがちな現象が、実際には投機、制度設計、行政の対応不足など複数の要因から生じていることを丁寧に指摘しています。同時に、分かりやすさを優先した言説が、人々の体験や現実感覚と乖離したまま広がっていく危うさも浮き彫りにしています。
ファクトは重要だが、それだけでは人は動かない
ファクトは、議論の土台として欠かせません。しかしファクトだけでは、政策の是非を判断することはできません。なぜなら、政策は人の生活に作用するものであり、その評価は「数字として正しいか」よりも、「生活の中でどう感じられたか」によって決定的に左右されるからです。たとえば、統計上は問題が小さいとされていても、地域の住民が日常的に不便や不安を感じていれば、その政策は現場では失敗していると言えます。
逆に、数字上は課題が大きく見えても、現場で工夫や協力が機能し、生活上の摩擦が小さいなら、過度に不安を煽る必要はありません。この「肌感覚」は、データ分析だけでは決して把握できません。だからこそ、ファクトはあくまで補助線であり、中心に置くべきは体験なのです。
体験にもとづく評価は、批判的であってよい
体験を重視すると言うと、「感情論に流れるのではないか」と警戒する人もいます。しかし、体験にもとづく評価は、必ずしも感情的なものではありません。むしろ、具体的で、改善点が明確になりやすいのが特徴です。行政手続きが機能しなかった、地域のルールが伝わっていなかった、雇用現場で不公平を感じた――こうした体験から出発する批判は、政策を現実に近づける力を持っています。
重要なのは、その体験を「誰が悪いか」という話に矮小化しないことです。体験にもとづく批判は、「この制度のここが現場に合っていない」「この運用では無理が生じる」といった形で、制度や運用に向けられるべきです。その意味で、体験にもとづく批判は、むしろファクト以上に建設的です。
国籍で人を判断する発言は、体験を歪める
ここで強調しておかなければならないのは、体験を重視することと、国籍による決めつけはまったく別だという点です。「○○国の人はこうだ」という言い方は、一見体験談のように見えても、実際には体験を単純化し、歪めています。同じ行動でも、背景には言語の壁、制度理解の不足、雇用環境、居住環境など多様な要因があります。それを国籍に還元した瞬間、体験から学ぶ機会は失われます。
体験を大切にするということは、一人ひとりの具体的な状況を見るということです。そこから見えてくるのは、「どこの国の人か」ではなく、「どの条件が問題を生んだのか」という問いです。この視点を失うと、体験は単なる偏見の材料になってしまいます。
なぜ今、体験を軸に考える必要があるのか
外国人政策をめぐる情報は、メディアやSNSを通じて大量に流れ込みます。刺激的な見出しや断定的な言葉は、短時間で人の感情を動かします。しかし、それらの多くは、受け手自身の体験とは無関係な「物語」にすぎません。その物語に引きずられるほど、自分の生活実感からは遠ざかっていきます。
だからこそ、「自分は何を見たのか」「どこで困ったのか」「何が機能しなかったのか」という問いに立ち返る必要があります。ファクトを確認する前に、まず体験を言語化する。そのうえで、必要に応じてデータを参照する。この順序を逆にしてはいけません。
まとめ――ファクトは従、体験が主
外国人政策を評価するうえで、ファクトは大切です。しかし、それはあくまで従です。主となるべきは、自己の体験です。体験にもとづくものであれば、批判的であっても構いませんし、むしろ歓迎されるべきです。一方で、国籍で性格や行動様式を決めつける発言は、体験を貧しくし、議論を空洞化させます。
政策は数字のために存在するのではなく、人の生活のためにあります。その評価もまた、生活の中での体験を起点に行われるべきです。ファクトを盾に体験を切り捨てるのではなく、体験を軸にファクトを使う。この姿勢こそが、外国人政策を冷静かつ現実的に考えるための、もっとも確かな道だと考えます。
