[ブログ]ホテルでのパスポート/在留カード提示要求はどこまで正当化されるのか:立法趣旨から考える
2025-12-28
2025年12月、在日コリアンの女性(日本生まれ・日本育ち、神戸市在住)が、東京都内のホテルで「パスポートまたは在留カードの提示」を求められ、最終的に宿泊を拒否されたとして、損害賠償を求め提訴したという報道がありました。記事:在日コリアン女性がホテル提訴「悪意がなくても差別」。
この種のトラブルは、「誰が」「どんな根拠で」「何を目的に」提示を求めているのかが整理されないまま、現場の“慣行”だけが独り歩きして起きがちです。本稿では、パスポートや在留カードの提示をめぐるルールを、誤解されやすいポイントを中心に、立法趣旨(なぜそのルールがあるのか)から確認します。
パスポート/在留カードの「提示義務」を求められる相手は原則として公的機関に限られる
まず大前提として、パスポート(旅券)や在留カードの提示を「義務」として求められるのは、入管職員や警察官など、法令に基づく権限を持つ公的機関(いわゆる“権限ある官憲”)から提示を求められた場合です。出入国在留管理庁も、旅券等の携帯・提示について「権限ある官憲の提示要求があった場合には提示しなければならない」旨を案内しています。
逆に言えば、ホテルや店舗、雇用主などの民間事業者が、一般的・包括的に「在留カードの提示を強制できる」法的権限があるわけではありません。民間事業者ができるのは、契約当事者を確認するための合理的な本人確認(任意の協力をお願いする)にとどまり、提示を拒否したからといって直ちに“法律違反者”扱いできるものでもありません。
旅館業法(宿泊者名簿)における唯一の明確な例外:国内住所のない外国人に限り「国籍・旅券番号」が必要
宿泊の場面で最も誤解が多いのが、旅館業法の宿泊者名簿です。旅館業法施行規則により、宿泊者名簿には一般的事項(氏名・住所・連絡先等)を記載しますが、ここで追加情報が義務付けられているのは「日本国内に住所を有しない外国人」に限られます。厚生労働省も、「日本国内に住所を有しない外国人」の宿泊に際しては、宿泊者名簿に国籍および旅券番号の記載が法令上義務であること、そしてその正確な記載のために旅券の呈示・コピーへの協力を求めていることを明確に示しています。
つまり、「外国人だから一律にパスポート(旅券)提示」は法律の建付けとズレます。ポイントは“国籍”ではなく“国内に住所があるかどうか”です。国内に住所を有する外国人(住民登録がある方)について、旅館業法が国籍や旅券番号の記載を一律に義務付けているわけではありません。この点は厚労省の旅館業法FAQでも、国内住所を持つ外国人宿泊者への本人確認や在留カード提示の取扱いが論点として整理されています。
「パスポートか在留カード、どちらか出せばよい」という理解も誤解になり得る(提示義務の“場面”を混同しない)
よく「パスポートか在留カード、どちらかを見せればいい」と語られますが、これは“いつ・誰に対して・どの義務が発動しているのか”を混同した説明になりがちです。提示義務が問題になる典型場面は、入管職員や警察官など権限ある官憲から求められた場合であり、その場合には、在留カードが交付されている中長期在留者は在留カードを携帯・提示することが基本になります(旅券で代替できるという単純な話ではありません)。この点は、拙稿ブログでも「在留カードが発行されている者は在留カードを提示する義務がある」こと、そして“誰に対しての提示義務なのか”を切り分ける重要性として紹介しています:在留カード提示義務に関する注意(当事務所ブログ)。
実務では、ホテル側が「旅館業法だから在留カード(またはパスポート)を出せ」と言い、宿泊者側が「提示義務は官憲だけだ」と言い、話が噛み合わなくなります。ここで整理すべきは、旅館業法が求めているのは(国内住所のない外国人に関する)“宿泊者名簿の正確な記載”であり、入管法が定める提示義務は“官憲に対する携帯・提示”だという、制度目的の違いです。
在留カードに似たものとして「特別永住者証明書」がある
在留カードと見た目や役割が似ているものとして、「特別永住者証明書」があります。これは、一般の中長期在留者が入管法に基づいて在留カードを持つのに対し、特別永住者が入管特例法に基づいて所持する身分関係の証明書です。今回の報道でも、当事者が「特別永住者」であること、そして在留カードではなく特別永住者証明書が交付されることが重要な前提として触れられています。
特別永住者証明書には(原則として)常時携帯義務がない
さらに重要なのが、特別永住者証明書は、在留カードと異なり、一般に“常時携帯義務がない”と理解されている点です。出入国在留管理庁の資料でも、特別永住者証明書は携帯義務がないことを前提にした設問(例えば、みなし再入国許可制度の利用時になぜ証明書が必要となるのか等)が置かれています。
もちろん、だからといって「何も示さなくてよい」「本人確認を一切しなくてよい」という意味ではありません。大切なのは、携帯義務や提示義務の有無は、制度が想定する管理目的・歴史的背景とセットで設計されているという点です。民間事業者が“念のため”として提示を求めるときも、(1)どんな法令上の目的に照らして(2)どの範囲で(3)代替手段は何か、を丁寧に考える必要があります。
特別永住者制度の趣旨と歴史的背景:なぜ「特例」として設計されているのか
特別永住者制度は、日本の戦前・戦後史と深く結びついています。日本の統治下にあった朝鮮半島等にルーツを持ち、戦後の国籍・在留の整理の中で日本に居住を継続してきた人々について、一般の在留資格とは異なる枠組みとして位置づけられたのが特別永住者です。制度名そのものが示すとおり、単なる“在留管理の一類型”ではなく、歴史的経緯を踏まえた特別法上の地位として設計されています。この背景を理解せずに、外形的に「外国人だから」「カードがあるなら出すべき」とだけ捉えると、本人の尊厳に直結する不利益(ときに差別)を招きます。
今回報道された事案で、フロント担当者が「通名を書けば泊まれる」と提案したとされる点は、まさに“制度趣旨の理解不足”が、個人の選択や尊厳に踏み込む対応へと滑りやすいことを示しています。歴史的背景を持つコミュニティにとって、氏名の扱いは単なる事務処理ではなく、同化の強制や差別の記憶とも結びつき得るテーマだからです。
ホテル事業者のみならず、公務員も含め「法律や行政指導があるか」だけでなく“立法趣旨”を理解して行動すべき
最後に、本件はホテルだけの問題ではありません。公務員であっても、「行政指導があるから」「前からそうしているから」という理由で、提示要求を当然視してしまうと、制度が守ろうとしているバランス(適正な管理と人権・尊厳の確保)を壊してしまいます。旅館業法の宿泊者名簿の規律は、国内住所のない外国人について国籍・旅券番号の記載を通じて名簿の正確性を確保する趣旨で設計されています。一方、入管法の携帯・提示義務は、権限ある官憲による職務執行の局面で本人確認と在留状況の把握を可能にする趣旨で設計されています。趣旨が違えば、要求できる主体も、求められる協力の範囲も変わります。
したがって、宿泊現場で求められるのは「外国人かどうか」ではなく、(A)国内住所がない外国人に該当するのか、(B)その場合に必要な情報(国籍・旅券番号)を、どのように過不足なく確認・記載するのか、(C)国内住所がある場合は、法の枠を超えて“過剰に”旅券や在留カードを求める合理性があるのか、(D)代替的な確認手段(住所記載のある公的書類等)で足りるのではないか、という整理です。ここを丁寧に運用できれば、不要な対立や傷つきを避けつつ、名簿の正確性も確保できます。
「法律に書いてあるから」「行政が言っているから」だけでなく、「なぜそのルールがあるのか」を理解すること。それが、宿泊事業者にとっても、公務員にとっても、そして利用者にとっても、最も安全で、最も誠実なコンプライアンスになります。
