[ブログ]「反移民日本」というイメージと、偏見を煽られないために考えたいこと
2025-11-30
Lowy Instituteの記事が投げかける疑問
日本の移民政策や外国人住民をめぐる報道は、国内外ともに「日本は極めて反移民的である」というイメージを強く発信することが少なくありません。こうした状況に対して、オーストラリアのシンクタンクLowy Instituteが発表した記事 “Don’t believe everything you read in the media about Japan’s strong anti-immigrant sentiment” は、重要な問題提起を行っています。この記事は、最近の世論調査や刺激的な見出しだけを切り取って「日本社会は強固な反移民国家だ」と決めつけることに対し、慎重になるべきだと指摘します。世論調査の聞き方や政治状況、メディアの文脈によって数字は大きく揺れ動き、本当の民意よりも「声の大きな一部」が強調されてしまう危険性があるというのです。
同記事はまた、日本の人口減少や労働力不足の現実を踏まえれば、多くの日本人は外国人受け入れについて「不安もあるが、全否定でもない」という揺れた気持ちを抱いており、その微妙な感情のグラデーションが、単純な世論調査の数字やセンセーショナルな報道に埋もれてしまっている可能性を指摘します。つまり、「反移民日本」というイメージは、データの一部と派手な言説だけが増幅された結果ではないかという問いかけです。
日本には「反偏見」ではなく「偏見を表明しやすい規範」がある
ここで注目したいのが、「反偏見ではなく、偏見を表明しやすい社会規範(pro-prejudice norms)」という概念です。欧米の多くの社会では、公の場で露骨な差別発言をすれば批判されるという「反差別規範」が比較的強く働いています。もちろん差別がないわけではありませんが、少なくとも表立って口にすることには心理的なブレーキがかかります。一方、日本では、移民人口がまだ相対的に少なく、「日本は単一民族国家」という自己イメージが根強いこともあり、「外国人はマナーが悪い」「治安が悪くなる」「移民は社会保障を食いつぶす」といった否定的発言をしても、強く咎められにくい雰囲気があります。むしろ、そうした言葉の方が“本音”として歓迎される場も少なくありません。
このような社会環境では、人々は「外国人について厳しく言う方が、周りから『甘くない常識人』と見られる」と感じがちです。その結果、世論調査やSNSでは、実際の心の中の感覚以上に強い否定的表現が選ばれやすくなります。匿名性の高い調査手法では反移民的な回答が大きく減るという研究結果があることを踏まえると、「表に出ている数字やコメント=社会の本音」と短絡的に考えることの危うさが見えてきます。
反外国人感情の「空気」に飲み込まれないために
近年、日本の政治やメディアでは、「外国人による治安悪化」「マナー違反の観光客」「社会保険料を払わない在留者」など、外国人の負の側面を強く取り上げる報道が増えています。もちろん、法令違反や悪質な行為があれば、国籍を問わず厳正に対処されるべきです。しかし、個別の不祥事やトラブルを「だから外国人は危険だ」「だから受け入れを止めるべきだ」という全体否定につなげてしまうのは、論理的にも現実的にも適切とは言えません。ここで必要なのは、次のような視点です。
第一に、「個人の行為」と「属性(国籍・出身・在留資格)」を安易に結びつけないことです。例えば、保険料未納や不法就労の背景には、日本語情報へのアクセス不足、不透明な仲介業者、雇用側の違法な働かせ方、制度設計の欠陥など、構造的な要因が潜んでいることが少なくありません。日本人が同じトラブルを起こしたときには「ブラック企業問題」「行政の周知不足」と捉えるのに、相手が外国人になると突然「やっぱり外国人だから」と話を短絡させてしまう――そのような思考パターンが自分の中にないか、丁寧に振り返る必要があります。
第二に、ニュースやSNSで目にする「目立つ事例」と、統計や現場の声が示す「全体像」を意識的に区別することです。迷惑行為をする観光客や悪質な外国人経営者のニュースは強く印象に残りますが、その一方で、地域の工場、介護現場、コンビニ、物流現場を支え、税や社会保険料を黙々と納めている多数の外国人労働者の存在はほとんど報じられません。犯罪統計や就労データを見れば、外国人比率が上昇しても犯罪認知件数がむしろ減っている地域もあることが分かります。それでもなお「外国人が増えると治安が悪くなるはずだ」と感じてしまうとしたら、それは事実というより「先入観」に近いかもしれません。
一人ひとりができる「立ち止まる」習慣
反外国人感情の空気に飲み込まれないために、私たち一人ひとりができることは案外シンプルです。SNSで過激な言葉や差別的なミームを見かけたとき、それを鵜呑みにして拡散する前に、「これは本当に事実なのか」「最も悪い例だけを切り取っていないか」「もし自分や家族が同じように一括りにされたらどう感じるか」と一度立ち止まって考えてみることです。また、外国人の友人・同僚・地域住民と実際に対話することも、ステレオタイプを和らげる大きなきっかけになります。顔の見える関係が増えれば、「外国人」という抽象的なイメージよりも、「あの人」「この人」という具体的な存在として相手を捉えられるようになります。
同時に、政治家やメディアが「不安」や「怒り」を刺激する言葉ばかりを並べているときこそ、「これは票や視聴率のために感情を煽っていないか」「複雑な現実を分かりやすく切り詰めすぎていないか」と疑ってみることが必要です。Lowy Instituteの記事が示すように、私たちは「メディアが描く物語」と「実際の社会の姿」との間にギャップがあり得ることを、常に頭の片隅に置いておかなければなりません。
冷静さを保つこと自体が、社会を守る力になる
日本は人口減少と人手不足の中で、外国人労働者・留学生・家族滞在者など、多様な形で外国籍住民に支えられています。今後も、一定規模の外国人受け入れなしに社会を維持していくことは難しいでしょう。その現実を直視しつつ、同時に不安や摩擦も真正面から議論していく必要があります。そのときに鍵となるのが、「反偏見ではなく、偏見を表明しやすい社会規範」が日本には存在するという事実を自覚し、その空気に自分が無自覚に乗っていないかを問い直す姿勢です。
感情が高ぶる局面だからこそ、数字の意味、報道の切り取り方、調査方法のバイアスを丁寧に確かめ、「怒り」を出発点ではなく材料の一つとして扱う冷静さが求められます。その積み重ねこそが、過度な反外国人感情に社会全体が飲み込まれてしまうことを防ぐ、最も確実で静かな防波堤になるのだと思います。
